オーヴァーベックとガストはニーチェの未発表作品の扱いについて相談しあった。1889年1月にはすでに印刷・製本されていた『偶像の黄昏』を刊行、2月には『ニーチェ対ヴァーグナー』の私家版50部を注文する(ただし版元の社長C・G・ナウマンはひそかに100部印刷していた)。またオーヴァーベックとガストはその過激な内容のために『アンチクリスト』と『この人を見よ』の出版を見合わせた。ニーチェの受容と認知が最初の波を迎えようとしていた。
1893年、エリーザベトが帰国。パラグアイでの「ドイツ的」コロニー経営に失敗した夫が自殺したためである。彼女はニーチェの著作を読み、かつ研究して徐々に原稿そのものや出版に関して支配力を振るうようになった。その結果オーヴァーベックは追い払われ、ガストはエリーザベトに従うことを選んだ。1897年にフランツィスカが亡くなったのち兄妹はヴァイマールへ移り住み、エリーザベトはニーチェの面倒をみながら、訪ねてくる人々(その中にはルドルフ・シュタイナーもいた)に、もはや意思の疎通ができない兄と面会する許可を与えていた。
1900年8月25日、ニーチェは肺炎を患って55歳で没した。エリーザベトの希望で、遺体は故郷レッケンの教会で父の隣に埋葬された。ニーチェは発狂前に「私の葬儀には数少ない友人以外呼ばないで欲しい」との遺言を残していたが、エリーザベトはニーチェの友人に参列を許さず、葬儀は皮肉にも軍関係者および知識人層により壮大に行なわれた。ガストは弔辞でこう述べている。
“ ―「未来のすべての世代にとって、あなたの名前が神聖なものであらんことを!」
”
エリーザベトはニーチェの死後、遺稿を編纂して『力への意志』を刊行した。のちに「ニーチェの思想はナチズムに通じるものだ」との誤解を生む原因となったエリーザベトの恣意的な編集(次節参照)がニーチェの意図を正確に反映したものでないことは広く知られており、決定版全集ともいわれる『グロイター版ニーチェ全集』の編集者マッツィノ・モンティネリは「贋作」とまで言い切っている。
ソクラテス以前も含むギリシア哲学やショーペンハウアーなどから強く影響を受け、その幅広い読書に支えられた鋭い批評眼で西洋文明を革新的に解釈した。実存主義の先駆者、または生の哲学の哲学者とされる。近代の終焉を告げる思想家ともされているが、ニーチェからポストモダンが始まっているとされるような、近代の終焉、克服云々の思想家とするのはあまりにもニーチェを矮小化しすぎている。
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神、真理、理性、価値、権力、自我などの既存の概念を逆説とも思える強靭な論理で解釈しなおし、悲劇的認識、デカダンス、ニヒリズム、ルサンチマン、超人、永劫回帰、力への意志などの独自の概念によって新たな思想を生みだした。
有名な永劫回帰(永遠回帰)説は、古代ギリシアの回帰的時間概念を借用して、世界は何か目標に向かって動くことはなく、現在と同じ世界を何度も繰り返すという世界観をさす。これは、生存することの不快や苦悩を来世の解決に委ねてしまうクリスチャニズムの悪癖を否定し、無限に繰り返し、意味のない、どのような人生であっても無限に繰り返し生き抜くという超人思想につながる概念である。しかしこれはニーチェの永遠回帰思想の間違いであり、ある瞬間は過去に無限回繰り返されており、そして未来に無限回繰り返されるが、それはその時点において「完結している」と考えることが必要である。